2013年12月10日

空海が15才の時、讃岐から「町屋ゲストハウスならまち」の地にやって来た!

空海が、讃岐から佐伯院に来た当時の状況を推定している研究が見つかった。
その名も『空海エンサイクロペディア』
そして、その佐伯院は、五条六坊十三坪にあっただろうと推定されている。
以下は、その抜粋である。


空海は、讃岐の豪族の父、佐伯直田公、母阿刀田氏の間に生まれた。
幼名は真魚(まお)。(774年宝亀5年)

 延暦7年(788)、真魚は平城京に上った。叔父の阿刀大足に伴われ、佐伯家か阿刀家かの誰かが付添い見届けにきていたであろう。才気にあふれていてもまだ15才の少年であった。
 平城京は、4年前の延暦3年(784)に桓武天皇により都が長岡京に遷され、すでに都城ではなくなっていたのだが、まだまだ都の機能を充分に残していた。
 上京した真魚はまず、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院にしばらく滞在した。佐伯院は平城京5条6坊にあった。

平城京と佐伯院 五条六坊13坪.jpg

 佐伯院の敷地は、以上のように、左京の五条六坊の十一〜十四坪と五条七坊の四坪にわたっており、その総面積は、道路敷地をのぞいて六町二段二十歩(一八六二〇坪)であった。

 この広い敷地のどこに佐伯院の主な堂宇が建立されたのかは明確にしがたい。
 延喜五年の「佐伯附属状」には、

 五間檜皮葺堂舎壱宇 金色薬師丈六像壱躯 同色脇士日光月光菩薩弐躯
 檀相十一面観音像壱躯

と記載されている。

 右の堂宇は創建当時のもので、佐伯院の金堂であったと思考される。佐伯院は奈良市木辻町西辺に位置していたことは確かであるけれども、金堂すらが瓦葺ではなかったとすれば、遺瓦にもとづいて主要堂宇の所在地を究明することは望みがたい。この辺は人家がたてこんでいるから、よほど徹底した発掘調査によらぬかぎり、遺跡の上から所在地を決定することはむつかしいであろう。しかし条坊の実際から推定すると、その主な堂宇は、五条六坊の十三坪の一画に存したとみる可能性が多いのである。

佐伯院跡.jpg

<図2>は、奈良文研の千田さんが作ってくれた「5条6坊」の平城京復元図と現況を照合した図である。1から16までの区画が「5条6坊」で、この図では佐伯院は「5の坪」に見える。「5条6坊」の全区画は約530m四方で、南側を東西に「五条大路」が、西側を南北に「五坊大路」が通じている。
(注1)

佐伯院跡の地図.jpg

そして、奈良時代MAP(光村推古書院:新創社編)平城京地図No.07には、嬉しいことに、”ゲストハウスならまち”の地所は、佐伯院の広大な地所に重なっています。

ほんとうにビックリして、興奮して、その日は寝られませんでした。

注1:<<空海エンサイクロペディア 007 平城京の寄宿先「佐伯院」>>より抜粋
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-113.html
タグ:空海
posted by フェスタマン at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | Diary 日記